「俺の目を侮るなよ、ヒルス!」 智の発言に尻込んで咲が一歩二歩と足を後ろへ滑らせると、あっという間に背中が駅舎の壁にぶつかった。物言いたげな顔が迫って来て、咲は逃げることも反撃することもできずに、きゅうっと唇を噛む。 顔一つ分背の高い智が、咲の目元に影を落とした。「と、とも、いや、アッシュ……久しぶりだね」 観念して声を震わせると、智の左手がまっすぐに伸びてきて、咲の顔のすぐ横を叩く。 「きゃあ」という黄色い悲鳴がホームから聞こえたのは、この状況が俗にいう『壁ドン』のシチュエーションだからだろう。そんな甘い空気など、当人にしてみれば微塵も感じられないけれど。「お前、芙美に告ったんだろ? 僕とこんな事してちゃマズいんじゃないのか?」「別にお前と気まずいようなことする予定ないし。それとも、するつもりだった?」 智の笑顔が怖い。こんな状況、他の奴なら蹴り一発で打破する自信はあるけれど、今は色々と分が悪い。「いや、絶対ないから」「なら心配いらないでしょ。けどやっぱり芙美ちゃんはリーナだったんだね」「…………」「ここまでバレて黙るつもり?」「上から物を言うような奴に、教えてやるかよ」「まぁそうだね。中身がいくら男だって、他人から見たら可愛い咲ちゃんを俺が脅してるように見えるもんね」「いや、十分脅してるだろ」 少し気持ちに余裕ができて、咲は智を睨み返した。「分かったよ」と智の手が壁を離れて、ホッと胸を撫で下ろす。「じゃあ、そこの店に行こうか。喉乾いたし」 そう言って智が指差したのは、絢の居る田中商店だ。他の選択肢がないからそうなってしまうのは仕方ないけれど、彼女がいる事が逆に心配だ。 まさか絢の正体にまで気付いているのか。 咲は「分かった」と答えて、言われるままに智の後を追い掛けた。 ☆ 店に入った時、ちょうど買い物を済ませた近所のおばあさんとすれ違った。客は彼女だけだったようで、中に居た絢が「いらっしゃいませ」と声を掛けてくる。「あら、珍しい組み合わせね」 開口一番そんなことを言う彼女の今日のスタイルは、Tシャツにタイトなミニスカートだ。それだけだといつもより大人しめだが、何故か髪はツインテールで、網タイツにピンヒールのサンダル……とおかしなことになっている。「デートじゃないですよ」 智はそう説明してメロンソーダを二つ
朝一人で登校したのは、鈴木の仮病よろしく『お腹が痛くなったから』という理由で誤魔化すことができた。 少し嘘っぽいかなとは思ったが、ちょうど通りかかった本人に「さっきは邪魔してゴメンネ☆」と保健室でのことを持ち掛けた事で、真実味が増したらしい。 鈴木は大慌てで逃げて行ったけれど。 貸しを作る気はないが、中條が何事もなかったように接してくれたのが有難かった。状況がスムーズに行ってしまうこの状況は、もしや嵐の前の静けさというやつだろうか。 そんな感じで、今日一日は咲にとってまぁまぁ平和に終わる筈だった――。 ☆ 学校から駅までの帰り道、咲は芙美とお泊り会の予定を色々立てる。 良い機会だからと芙美の両親が温泉に一泊旅行する事になり、夕飯を一緒に作ろうだとか、夜は何を着て寝ようだとか、話題は尽きない。「お兄ちゃん、咲ちゃんが来るのめちゃくちゃ楽しみにしてるよ」「それは嬉しいな! 私も早く会いたいよ」「何なに? 何の話? 楽しそうだね」 テンションを上げた咲に、少し後ろを歩いていた智が首を突っ込んできた。隣にはもちろん湊が居る。「芙美の家に泊りに行くんだ。羨ましいだろ」 咲がしたり顔を二人へ向けると、湊が面倒そうに溜息を漏らす。いつも通りのやり取りだ。「お前は俺に何て言わせたいんだよ」「羨ましいですって言わせたいんだよ!」「咲ちゃんらしいね。確かに芙美ちゃんの家に泊れるなんて羨ましいけど、流石に俺たちは男だから遠慮しとくよ。咲ちゃんは女の子だから、俺たちの分も楽しんできてね」「お、おぅ」 『女の子』を強調する智に意味深な空気を感じて、咲は息を呑んだ。 まさか智は気付いているのだろうか。 表情はいつも通りだが、今日は朝から智の視線を多く感じた気がする。気のせいだとは思いたいけれど、絢にも注意されたように一昨日の山の件も含めて心当たりは幾らでもあった。 不穏な空気を噛み締めつつ、咲は芙美の隣に隠れるように歩く。 ☆「咲ちゃん、智くん、また明日ね」 改札の手前で二人と別れた。もう上り電車はホームに入っている。駆け足で行く二人の背中は恋人同士のようだが、この間芙美に告白したのは湊ではなく智だ。 横で見送る智をそろりと見上げると、「何?」と笑顔が下りて来る。咲は反射的に彼から一歩横へ離れた。 上り電車が出ると、下りもすぐ
養護教諭の佐野一華(いちか)は保健室にいた。絢は彼女をリーナの親友だったメラーレだと言うが、咲は彼女の事をあまり覚えてはいない。 先客と一華のやりとりが何やら面白いことになって、咲は部屋の中を覗きながら笑いを堪えるのに必死だ。 丸椅子にうずくまり「痛いんですぅ」と症状をアピールする鈴木は、おそらく9割の確率で仮病だろう。咲じゃなくとも、一年クラスの生徒なら皆がそう思う筈だ。鈴木が保健室へ行くのは月に三度はある恒例行事で、もちろん体調不良ではなく専ら一華狙いなのだと本人も宣言していた。 それに気付いているのかどうかは分からないが、一華は鈴木に優しい。「朝ごはんは食べてきた? 吐き気はない?」「ご飯は食べました。吐き気は、少しだけ。ハァハァ」 鈴木は胸の上を押さえながら、潤んだ目を一華に向けた。「今朝からお腹がずっと痛くて。ここです、ここが……」 逆の手で、胃の辺りを指差す。もっと近くに来て欲しいという鈴木のサインは咲にも十分に伝わってくる。けれど一華はチラと確認だけして立ち上がり、棚から市販薬を取り出して水と一緒に鈴木へ渡した。「だったら、これ飲んで様子見てみて。早く良くなりますように」「は、はい」 敗北感を漂わせて、鈴木は渡された薬を流し込む。「でも、あんまり痛いなら早退する?」「いや、いえっ、そこまでじゃ……少し休めば治ると思うんです。そこのベッドで……」「真面目なのね。けど、辛いなら無理して学校に居なくてもいいのよ? 中條先生からおうちに連絡して貰いましょうか」 必死に食らいついていた鈴木だが、「家」と言われた途端に顔色を変えた。背中を向けた一華に「待って」と半泣きで声を上げる。「も、もう大丈夫です。薬効いたみたいなんで」 そんなに早く薬が効くわけはない。 目論見が外れた鈴木は、痛みなんて飛んで行ってしまったようだ。彼の家は田中商店のすぐ裏で、色々と不都合が多いのだろう。 ふと顔を上げた一華の視線が、ドアの隙間から覗く咲を一瞬だけ捕らえた。そして何事もなかったように鈴木との会話を続ける。「治ったなら良かった。元気なら、ちゃんと授業に出てね」 笑顔を広げる一華に鈴木は「はい」としょんぼり頷いて保健室を出るが、入口を立ち塞ぐ咲に「うぇぇ?」と悲鳴に似た声を上げた。「海堂……今、来たのか?」「いや、順番待ってただけだよ
朝、芙美が湊と電車を降りたところで、スマホがメールの着信音を響かせた。「咲ちゃんからだ」 発信者を確認して改札を見ると、いつもの姿はそこにない。 何だろうと思って本文を開くと、『用事があるから先に行く』という短い文章の後に、『ごめんね』ポーズをしたウサギのスタンプが貼り付いていた。「海堂休み?」「ううん、先に行くって」 覗き込んだ湊に画面を見せると、上り電車から先に下りていた智が「おはよ」とやってくる。「おはよう智くん。土曜日はありがとう」「どういたしまして。今日は咲ちゃんいないの?」「うん――」 二人の修行を見に行った帰りに、咲の元気がなかったのは関係があるのだろうか。 咲が朝この場所に居ないのは、四月以来初めての事だった。 ☆ 芙美にメールを送る十五分前まで溯る。 咲は既に校門の前に居た。まだ風紀委員の伊東の姿はなく生徒もまばらだが、校長の田中耕造はいつも通りそこで生徒に朝の挨拶をしていた。 前を歩く生徒に「おはよう」と向けた笑みが、後ろから来た咲を捕らえる。「おはよう、海堂さん」 いつも何気なく見ている校長の顔に懐かしい老父の顔を重ねて、咲は「おはようございます」と緊張に声を震わせた。 絢から話は聞いたが、彼が異世界でずっと一緒に暮らしていたハリオスだという事実には、どこか半信半疑な気持ちがある。だから、芙美たち三人とは別行動をとって先にここへ来たかった。 ちょうど生徒の波が途切れて、咲は意を決して問いかける。「校長先生は、爺さ……じゃない。ハリオス様なんですか?」 不審に思われるかもしれないと思ったけれど、不安が解けるのは一瞬だった。「爺さんで構わんよ。久しぶりだな、ヒルス」「爺さん……僕はアンタにずっと会いたかったんだよ」 この世界へ旅立つ時、ヒルスがルーシャ以外で最後に話したのがハリオスだった。 リーナに会えるなら向こうに未練はないと思っていたけれど、こっちに来て記憶を戻してからは彼を思い出すことが良くあった。「お前がリーナじゃなくて、儂に会って泣くのか?」「女の身体ってのは涙脆いんだよ。けど爺さん、リーナを見つけてくれて有難う」 校長は白髪の混じる太い眉を上げて、にっこりと目を細める。 咲は込み上げる涙を人差し指で拭った。「けど、何でこっちに来たんだ? あの時僕はサヨナラを言ったよね?
ハリオスはヒルスにとって親代わりのような存在だ。 彼との出会いは戦争で両親を亡くしたヒルスが、二つ歳の離れたリーナと町を彷徨っていた12歳の頃まで遡る。「身寄りが誰も居なくて、僕たちは糊口をしのぐ生活を強いられた。そこいらの軒下に寝た事もあるし、雑草を食べて腹を壊した事だってある。建物の被害が少なかった王都まで逃げたある日、リーナが居なくなった事があるんだ。半日探しても見つからなくて途方に暮れてたところで、アイツはアンタを連れて帰って来た」「魔法使いって感覚が鋭いの。たまたま迷子の彼女を見つけて、唯一の家族だっていう貴方を探すのを手伝った。その時に手を繋いで、魔法使いだって分かったのよ。まさかウィザードにまでなる逸材だとは思わなかったけど」 懐かしむように絢は話す。 俯いたままの咲は少し顔を上げたが、彼女のヒラヒラのミニスカートが視界に飛び込んできて、慌てて目を逸らした。「僕たちが孤児だと知って、アンタはハリオス様を紹介してくれたんだ」「国は戦争で魔法使いを大量に失った。リーナは貴重だったのよ」 ハリオスは元々、王に仕える賢者だったが、戦後にヒルスが初めて会った時はもう現役を退いていて『本好きのお爺さん』くらいにしか見えなかった。「リーナが魔法使いだったから、僕たちはあの人の所で暮らすことができた。リーナはアンタの所で魔法を学んで、僕も兵学校に行かせてもらった。だからアンタには感謝してるよ」「私はリーナを育てたかっただけよ」「僕はただのおまけなのに、ハリオス様は僕にとっても優しかったんだ。爺さんって呼ぶと周りの奴等は慌ててたけど、あの人は嫌な顔一つしなかった」 芙美を今の高校へ誘ったのは校長だという。けれど先を越されたという嫉妬は全く起きなかった。 咲もあの町へ何度か足を運んだが、探し当てることができなかったのは事実なのだ。「校長が爺さんだって気付けなかった自分が恨めしいよ」 ターメイヤに居た頃と今では、ハリオスの外見はまるで違う。けれど年の頃は変わらないように見えた。「爺さんは今この家にいるのか?」 その経緯は不明だが、異世界では他人だったはずの校長と絢が、この世界で父娘という関係になっている。つまり校長の家はここなのだ。滅多にない事だが、彼が店番をしていることもある。「今はいないわよ。結構ふらふらしてるから、散歩にでも行っ
「そのカッコ見てると、話したいことも話せないんだけど……」 応接室へ通された咲は、銀の丸盆にメロンソーダを乗せて現れたメイド服姿の絢から目を逸らした。「こんなの大した事ないじゃない。向こうの世界に居た時は、もっと色々着てたでしょ?」 異世界・ターメイヤで魔女だった彼女は、確かにいつもヒラヒラでファンタジーアニメに出て来るような服を着ていたが、生憎ここは魔法世界でもなければアキバでもなく、ただのド田舎だ。「絶対おかしいから」「それを言ったら、昨日の貴方の格好だって山に行くには程遠いわよ」 ミニのワンピースとピンヒールのサンダルを指摘されて、咲はムッと頬を膨らませる。「じゃあ、昨日芙美に貸したワンピースは? 逆にアレはアンタらしくないよな?」 ズボン姿の芙美を『地味』だと言った絢が彼女に着せたのは、普段のラインナップからは想像できないような、上品な白無地のワンピースだ。「あれは昔、デエト用に買ったのよ」「デートだと?」「触れられたくない過去をほじくり出さないでくれる?」 驚愕して声をひっくり返らせる咲に、絢がやたらと布の多いスカートをフワリと翻して、向かいのソファに座った。 咲は「分かったよ」と諦めて腰を落とす。「それで? 私に何か聞きたくて来たんでしょ? 昨日はどうだったのよ。あの二人はちゃんとやってた?」「あぁ……アッシュの野郎がムカついた」 ズズッとメロンソーダをすすって、咲はミニスカートで足を組んだ。ギリギリパンツは見えない。「だからあの二人が訓練してる所なんて行かない方がいいって言ったのよ。彼に未練タラタラじゃない」「そんなんじゃないよ。僕たちは親友なんだ。相棒にはなれなかったけど……」 「呆れた」と絢は首を振った。「そういうのが未練がましいって言ってるのよ」「昨日アイツに剣で勝ったくらいで浮かれて、僕は馬鹿みたいだなって思ってさ」「ちょっと、その姿で戦ったの? 正体バレるわよ?」「僕は咲だぞ? そう簡単にバレやしないよ。あんなのマグレだと思えば何の問題もない。けど、アイツの魔法を久しぶりに見て現実を叩き付けられたって言うか……僕が選ばれなかった理由はちゃんとあるんだなって」 咲がヒルスとしてターメイヤに居た頃の話だ。国はリーナの側近を二人募集していて、選ばれたのがラルとアッシュだった。「悲観するほど弱くもな